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――唄う、ってどういうことなの。
そう聞かれてきょとんとしたのはニアだった。カップに注がれたコーヒーに口をつけて、はてと首を傾げる。
「何故、そんなことを聞くんですか?」
「だって……。きっと僕にはない感覚だろうから、聞いてみるのが手っ取り早いかなぁって」
「ならイヴェールに聞けばいいのに」
「嫌だよ。だって返ってくる答えなんていつも同じだもん。”僕は何時だって詩を詠うよ。それが生きるって事なの”って」
「……それが全てじゃないんですか?」
「だから聞いてみたくなったの。他の人はどうなの? って」
ヴェルフォードの王家に連なる人間は一様に音に、歌に取り憑かれてしまうような時があるから。
「で、私に聞くんですか」
「うん」
「……そうですね」
考える。実はニア自身、あまりよく分からないのだ。歌を気付いたら歌ってしまっている時は、どうにも感覚がふわりと浮いてしまうようでもあって、深く潜っていくようでもある。
ただそうなった時には自然と――。
「人は呼吸をする時、意識をしますか?」
「え? しないんじゃない?」
「はい、しません。自発的だけれど意識してやるものでもない」
「それがどうしたの?」
「……それに似てると思います」
そう、気付いたら歌ってしまっているのだから。
そして口をついて出る音律は、それが”終わる”までするする出てきて止める術も無い。
違う。呼吸と同じで意識的に止めてしまえば苦しくて仕方なくなるのだ。
「……呼吸」
す、っと小さく息を吸う音が聞こえた。
この答えでは満足しないのかも知れないが、ニアにとって一番しっくり来る言葉だったのでもう少し突き止めたければ他を当たればいいだろう。
「そうかぁ。……ありがとう」
にこりと笑って、席を立った少女が踵を返す。
駆け出す直前振り返って「またね」と言い残す背中を見送って、ニアは苦笑した。
>>むつきさんのネタを受けての、小話。
唄うことは呼吸に似ているよ。
コツン。
窓を叩く音に顔を上げると窓から白い手が覗いていた。ひらりひらりと振られる。
大体相手が想像つくので窓の鍵を開けると、案の定見知った顔がにこりと笑った。
「エノア姉さん」
「ああ、ちゃんと居ましたね。さっきドアから入ろうと思ったら盛大な張り紙があったんで、どうしたものかと思ってたんですヨ」
「……え?」
「”研究の鬼と化します。取扱注意。開けるな危険!”ってネ」
「誰だ。そんな馬鹿な張り紙かいたの」
「さぁ? じゃ、ちょっとお邪魔しますネェ」
その言葉に窓から数歩離れると、顔の高さにある窓枠に手を掛けてザークシーズはいとも簡単に部屋へ進入する。
手には発泡スチロールの小さな箱。
おや、と首を傾げればその箱を押しつけられた。
「なにこれ?」
「差し入れデスヨー。評判のお店のジェラードです。アイスは好きでしょ?」
「ありがとう。エノア姉さん」
後で戴くことにして、備え付けの冷凍庫に入れると、その脇をすり抜けてザークシーズがソファに腰掛けた。
お茶請けに入っていた飴をちゃっかり一つ摘んでいる。
「で、どうしたの?」
「イエ、ちょっと確認したいことがあって」
「僕から? なんだろう」
おいでおいでと手招きをされたので向かい側の椅子に座ると、足を組んで背もたれに体重を預けたザークシーズが口を開いた。
「前に貴方、ハッキングを受けて負けたことがありましたね」
「……ああ」
「青い鳥だったんでしたか」
「そうです。……どうしてそんなことを? まさか突き止めたとか」
「あのネ、貴方が突き止められないのに私が分かるわけないでしょ? ただの確認デス」
「情けないな。今でも情けないって思う。……大事な”詩”だったのに」
「あまり思い詰めても良いことはないですヨ」
小さく笑みを零して足を組み直したザークシーズが、「でも」と付け足した。
思わず耳をそばだてれば悪戯気に笑う。
「青い鳥って上手い暗喩ですヨネ」
「暗喩じゃなくてプログラムでしょ。本当なんだけど」
「メーテルリンクですよ。チルチルミチル」
「……何、それがなんだって」
「探し物でしょう? 案外身近なところにあるかもしれないって話」
そこまで言い終えて立ち上がると、彼女は「それじゃ」とひらりと手を振った。
その瞬間に確信する。何かを掴んでいるのは間違いないと手を伸ばせば、するりと身を躱された。
「それじゃ、また」
「姉さん…! 本当は何か知って、」
「幸せは自分から見つけなきゃ駄目なんですヨ? 知ってるでしょう?」
人をからかう笑顔で来た時と同じように身軽に窓を飛び降りたザークシーズが言い残す。
彼女の着ていた上着がひらりと舞った。そのまま手を振って去っていく姿を窓から身を乗り出して見詰めながら、言葉に引っかかる感覚に目を細める。
「……幸せの青い鳥」
幸せの象徴の青い鳥を追いかける兄妹の、その幸せは身近にあった話。
「まさか」
――そんな、まさかね。
だってそれじゃ、お伽話みたいだ。
>>一つ前の話のおまけ。
鳥を追いかける詩歌いさんと、詩に惹かれる小鳥。
シークレットサインコード。
綿密に変えられた暗号文のメールに隆景は眉を顰めた。最近はこの手のメールは全く貰っていなかったはずなのだが。
(―あんま、良い内容じゃ無さそうだなぁ)
ガイアの学習プログラムをオフにして、ガイアの回線から一応別データベースのムネーモシュネーを経由してメールを開く。もちろん擬似回線を作ったので通信履歴は残らない。
本来ならばアフロディーテに帰属するサーバーを使わない方が好ましかった。
『 拝啓 暑さの厳しい折、変わらずお過ごしでしょうか ――?
………………
ところで、まだ青い翼はご健在?
飛ぶことが可能ならば少しだけお願いしたいことが御座います。
時間が空きましたら連絡を下さい 』
一通り目を通して隆景は立ち上がる。
机の引き出しから一本のメモリースティックを取り出し無造作にポケットにつっこむと、ついでに擬似回線を消去しガイアとの接続も切断した。
一度大きく伸びをして首を回す。向かう先は一般人の生活ブロックにあるネットカフェだった。
***
久しぶりに打つキイはなんだかんだと慣れてしまっていて、最近の音声入力よりある意味無機的で良いと思う。
幾つも開いた窓が一度に色々なプログラム言語を映し出しては流れていく。
全部に目を通しながら隆景は傍らに置いたマグカップに手を伸ばした。大して上手くもない苦いコーヒーを喉に流し込んで背もたれに寄りかかる。
それは慣れた仕草で一回だけエンターキイを押して黒い画面に文字が映るのを、無表情で眺めるだけだ。
(……ん? 何この変な配列)
繰り返し流れていくプログラムの中に不自然な一点を見つける。つっつくようにすれば急に平行して防御プログラムが展開した。出来は悪くない。……が。
「あんまり面白くもないかなぁ」
思わず声に出して漏らして隆景は指を滑らせた。
途端展開した防御プログラムが崩れる。一瞬にしてプログラムを壊した隆景は、その先――防御されていたファイルを、自分が持ってきたメモリースティックに落とし込む指示を出す。
ダウンロード開始。
ゆっくり落ちていくバーを眺めて、「遅い」と呟いた。
たぶん相手側がハッキングに気付くまでにはもう少し時間が掛かる。防御プログラムが壊されたにも拘わらず時間があるのは、偏に壊す際にアラームを鳴らす経路を麻痺させたからだ。
けれど完全に相手を封じたわけではない。出来るだけ知られるのを遅くしたのであって、未だアクセスしている状態では相手がハッキングに気付く可能性の方が高かった。
自分で一から作り上げた端末ならともかく、公衆の場の端末で過ぎた処理速度は望めない。
何とか青いバーが伸びきったのを見届けて瞬時にアクセスを切った。画面から窓が消える。
残ったのは”ダウンロード完了”のダイヤログのみ。
(――間に合った)
ファイルを確認するために開くと、画面いっぱいに設計図のようなものが飛び込んでくる。
依頼を受けたとはいえ、これは。
「……訳分かんないな」
余り良いものじゃないのだけは分かるけれど、専門外だ。
「軍事用衛星の設計図ですヨ、それ」
画面を見て唸った隆景の肩にするりと白い手が乗る。正直肝が冷えた。
「……?!」
「オヤ? そんなに驚かなくても」
隆景が振り払うように、椅子を反転させるとくすりと笑みを零した女性と目が合う。白い容姿に深紅の瞳。
気配がなかった。
「ザクス、さん」
「はい」
「……どうしてこんなところに」
「見知った顔が珍しいところで真剣な顔つきで、何かをやっていたので。興味本位デス」
区切られたブースの端にあった予備の椅子に腰掛けた女性が、すっと目を細める。
「ところで」
落とされた声音に隆景は体を縮ませた。
「違法行為ですヨ? 良いんですか?」
「良くないです」
「しかも一国の軍事機密にアクセスなんて……正気の沙汰じゃないですヨ」
「……どこから見てたんですか」
「設計図だけですケド?」
不思議なことを訊く、と言いたげに首を傾げた相手に隆景は数度瞬きを繰り返した。
そういえば前に彼女の前職は軍人だったと聞いたことがある気もする。自分には全く分からない図面だが、彼女にとっては見覚えのあったものなのだろう。
「あの」
「ファイルの内容が分からないってコトは、貴女が特段欲しくてハッキングした訳じゃないですね? どこに渡すんです?」
完全に全てを読まれてしまっている。
「日本の或る開発局です」
「……日本?」
「とは言っても、実体は下請けですから……。正確には米国になりますけど」
思わず敬語なのは、どうにも後ろめたいからだ。腕を組んで考え込んでしまった相手をちらりと盗み見ると僅かに眉間に皺が寄っている。
「抑止力にはなるか」
小さく呟かれた声が存外無機質であったので知らずに隆景は体を強張らせた。
それに気付いたか女性がすぐに笑みを作る。
「まぁ、今回は見逃してあげますヨ」
「……え?」
「個人的には小国あたりに流されると厄介だなと思っただけで、貴女のソースに間違いはないでしょう?」
「ああ、米国ってこと? それは大丈夫です。身分を明かされてないのは癪に障ったんでハッキングした成果ですから」
さらっと言ってのけた言葉に、今度は女性が瞬きを数度繰り返す。
「隆景君、確か得意分野はプログラムだったと聞いたケド」
「似たようなものです。尤も、これからは一応足を洗ったんだけど」
ちらりと画面を見遣って今更気付いたかのように隆景はモニターの電源を落とした。
ブラックアウトする画面に二人の姿が反転して映る。
「賢明です。決して良い事じゃないですカラ」
「分かってますよ」
そのまま全ての履歴を画面を映し出さずショートカットで消去して電源を落とす。回るファンの音が途端に静かになり、数秒おいてからメモリースティックも引き抜いた。
「……リ、イヴェールは知ってますか?」
「え?」
ポケットにしまったメモリースティックを確認する隆景に問いが投げられる。
「貴女が優秀なハッカーだってこと」
「”だった”です。……たぶん知ってると思います」
「それだけの腕だ。固有名詞持ってたんじゃないですか?」
その問いには「うーん」と笑って首を傾げた。
確かに優秀な腕のハッカーには、不思議と名前がいつの間にかついて回る。隆景にも確かに名はある。
けれど何故その名がつけられたのかは分からないのだ。
「持ってます。今も、たぶん……生きてる」
「……足は洗ったんですヨネ?」
「勿論。今回は特別だっただけで、アフロディーテに来てからはやってないですよ」
――まぁ、そりゃ私用で少しくらいハッキングしたり、仕事をさぼるための偽造工作に使わないこともないが。
報酬を貰う裏家業としては全くしていない。二度とやる気もなかった。
「名は、訊かない方が止さそうデスネ」
「え?」
「とりあえず、こんな場所でやるのは止めなさい。誰に見られてるかも分かったもんじゃないですから」
それを言うとゆっくりと立ち上がって女性が笑んだ。
つられるように立ち上がった隆景に「そういえば」と言い添える。
「この近くに美味しいジェラード屋さんがあるんです。ご一緒しませんか」
――ハッピーブルーバードさん。
最後の言葉に、隆景は全く敵わないと今度は苦笑するしかなかった。
>>分類不可。昔取った杵柄っていう二人。
狭いシャトルから出ればゆったりと地球と同じ分の重力がかかる領域に差し掛かる。
ここで重力に慣れた後にシャトルポートに出るのだが、どうにも火星の低重力に慣れてしまったせいか重力差に顔を顰めることになった。
芸術品や動植物、此処に存在する全ての保全のため、この人工惑星には地球と同じ分の重力が掛かっている。
「遅いぞ」
やはり火星研究機関暮らしが長いとこうなるかと頭の端で重いながら、ぺたぺたと緩やかな足取りで通路を歩いていたところに通りの良い声が掛かった。
冷涼ささえ感じる声は聞き慣れている。
「おや、月くんの方が早かったようですね」
きっちりとスーツを着込んだ細身の青年に笑いかければ相手は盛大に溜息で応酬した。出かけ間際、野暮用が入り一便遅れることになった。それを連絡するのを忘れ、相手から問われてから初めて一便遅らせたことを知らせたのは間違いなくエルの不手際である。溜息一つで済むのなら有り難いことだ。
「早いに決まってるだろう。全く、遅れるなら遅れると連絡を寄越せ」
「すみません。焦ってたんですよ」
特段そのような素振りも見せずに月の横にまで歩み寄ったエルが宙を仰いだ。
「別に遅れることを責めてるわけじゃない。不測の事態だったんだろう?」
「いいえ? そういうわけではないんですけどね。ああ、まぁ……でも同じようなものかもしれません」
シャトルのチケットを手に持って部屋を出る時に呼び出しを受けたのは、偏に火星研究機関の一ブロックで緊急退避信号が発令されたからだ。結局、ちょっとした実験の小さな爆発にセキュリティシステムが反応した誤作動で、大事ではなかったのだが、それでも研究機関を任されている身としては原因が解明されるまで離れる訳にはいかなかった。
「それよりも」
思い返しながらもエルは隣を歩く友人に笑いかけた。
「時間はあったでしょう? 見てきたんですか?」
主語が完全に抜けた問いかけに姿勢正しく歩いていた月が緩く首を振る。
「いいや、まだだ」
「そうですか」
「何だよ、その含んだ笑い方。……ここからだと結構時間が掛かるんだよ。お前を迎えに往復しなきゃいけないなら時間がないと思ったんだ」
少しだけ子供っぽい言い訳をして月が視線を逸らす。その様子にエルは小さく笑みを零した。
友人にしては年が離れているのだが、月とエルは偶然であった時から反発し合いながらも交友を深め、現在に至る。
日本の一官僚の月と火星研究施設の所長であるエルは一見通じるところがなさそうだが、思考も何もお互いに興味深い相手だった。だからこそ距離は離れ、職業も全く違っても関係は続いている。
「しかし、よくまぁ……片腕だけとはいえ見つけたものです。あんなもの見つけても復元さえ難しい状態でしょうに」
「復元には確か技術提供したんじゃなかったか?」
「いいえ。元々提携していた開発がありましたので、それの一環です」
肩を竦めてエルは息を吐く。
話題に出ているのは先日、業務連絡のような面持ちの個人メールに書かれていた芸術品について、だ。
”春の微笑み”と名付けられた彫像は数ヶ月前に海底から引き上げられたものだ。偶然が重なりほぼ損傷のない状態で見つかった本体だが、その象られた女性の両腕だけは失われていた。そしてそれに変わった反応を示したのが月である。
昔見たことがあるんだ、と漏らされた言葉にエルは迷わず現物を見に行くことを勧めた。
まだ展示出来る内容ではないものを見学するには許可が必要だったが、彼の出した申請書に自分も後押しの書類を添えた。そうして許可を貰って久々に見た彫像の、失われた腕に落胆を示した月の言葉に興味を持った学芸員が声を掛けた。
「にしても、良い仕事してます」
「……は?」
「ニアですよ。メールが画像ファイル付きで来たんですが、もう片方の腕の残骸も何個か拾えたと演算と解析結果も添えられていたんです。それに掛けた時間がね、なかなか…」
「嬉しそうだな」
「それはそうでしょう? 立派な学芸員になったものです」
笑ったエルが少しだけ首を傾げる。
月に声を掛けた学芸員はエルの血縁に当たる。幼い頃に両親を亡くしたのを引き取り育てた存在がいつの間にか自立し、自分とは違う研究機関で一人前の学芸員として働いている。嬉しくないわけがない。
小さな頃から頭は良かったが人付き合いに難のあるニアがやっていけるのかは正直最初は不安だった。
けれど素っ気ないメールの遣り取りと、技術提供の為にこの人工惑星に赴くニアの幼馴染みの二人の話を聞いて、それなりに上手くやっているのだと知って安心したのだ。
元々人嫌いではないらしい。
「変わってはいるけどな」
「それは……、まぁ研究者なんてどれも似たようなものですよ」
「それはそうだな」
戯けて返したエルに屈託無い笑いが返った。
学芸員は美術品を扱う面、芸術家も多いが、本質は研究者に近い。火星の研究機関で学生時代を過ごしたニアは正に研究者肌の人間だろう。
「お前に似てるところあるし」
「……うーん。褒めてるんだか貶されたんだか分かりませんね」
小さく笑いを含んだまま、「ああでも」と続いた言葉にエルは隣の月を見遣る。
「確かにお前の言う通りだったよ」
「何か言いましたっけ?」
「容姿の話だ。僕好みだって。確かにあれは人目につく」
白い、どこか色を厭うように真白を纏う細い影。
管理統制された夕日の中で、朱く染まるのに白さだけは損なわれないような、不思議な感じだった。
「……ああ、あの子の容姿は母方譲りなんです」
「へぇ?」
だから似てるようで似てはいないのかと相槌を打った月が、視界の端に話題に上がった白を見つけた気がして前方へと視線を移す。そして手を振った。
ターミナル出口の傍に立っていたニアが気付き会釈して寄越す。迎えに来たらしい。
「おや、わざわざ迎えに来てくれるなんて珍しいですね」
「お久しぶりです。予定よりも随分と遅いようなので、私以外の人間が心配してたので仕方なく来ました」
移動も人混みも嫌いだと言わんばかりの言いように月は笑った。エルと言えば「そうですか」と相槌を打ちつつもふわりとした癖毛の頭に手を置いて、子供をあやすように頭を撫でる。
僅かに眉を顰めたニアだったが抵抗はせず、為すがままでそれがまた可笑しい。
「夜神さんもお久しぶりです」
「ああ、僕も呼んでくれてありがとう」
「いいえ。貴方の言葉があったからこそ、今回の研究の方針が決まったようなものです」
エルの手から何とか逃れてついとニアは視線をターミナルの外に向ける。
「それでは移動しましょうか。外に車を用意してあります」
講堂よりは狭い、しかし十分な広さのある部屋に”春の微笑み”は鎮座していた。
傍らにある本来は会議用に使われるデスクの上には作業用の工具や、色々な資料が散乱している。
「どうぞ」
ニアが足を踏み入れた途端、部屋の照明が順次点いていく。回線を通して電源を入れただけなのだが、全く手も音声も使わない分慣れない人間には驚かれやすい。
照明によって鮮明に照らされた彫像の腕は、月が前回訪れて見た時とは違っていた。失われていた両腕が、見るものに訳隔てなく差し伸べられていた腕の片方がある。
「……、これは」
「見事ですね」
嘗て両腕が揃っていた頃に偶然盗み見た記憶のままの、その片腕に言葉を失った月に被さるように賞賛の声が掛かった。
目を細めて彫像を見遣るエルは研究者の表情をしている。
「もう片方は、……壊れてしまっていました。何とか拾えた欠片を解析していますが、ただ……象るものが推測の段階を出ないので、たぶん腕はこのままだと」
「いや」
「出来ればもう片方も、もう少し残っていてくれたら良かったんですが」
ニアの言葉にふるりと首を振って、月は手を伸ばす。
幼い頃に見た、忘れられない光景とほぼ同じ形をした彫像に。
「……凄いよ」
触れる寸前で手を止めた月の落とした言葉に、ニアが不思議そうに瞬きをし、その横でエルが心得たように笑みを浮かべた。
「もう二度と見れないと思っていた」
――本物の腕は。
ニアに腕がどのようであったかを事細かに説明した時、記憶と違わぬように注意を払ったが、それでも記憶されたものと実在するものでは差異が生じる事など分かり切っていた。
個人の記憶によって複製を作ることは可能だ、と告げたニアも「でもそれは元の姿に戻るわけとは違う」とその時に言ったのを覚えている。あくまで研究する上のアプローチとして、月の記憶にある腕の複製を作り彫像と研究する事はあっても、それが元の形であるとは断言出来ないと言った。
腕が見つかる可能性は限りなく低く、数ある彫像と同じように失われた状態がその形であると結論付けることになる筈だった。
「大変だったろうね」
発見された場所から乗っていた船が沈没した位置を演算し、そしてその後どれくらい気力のいる調査をしたのだろう。
見つかった腕は今は修復されているが、発見された当時はかなり損傷が激しかったと聞いている。
「それほどでもありませんよ」
この状態にするまで、どれくらいの労力が掛かったのか月には到底理解出来なかった。
それをさらりと何でもないと言ってのけたニアが、伸ばされたまま触らない月の代わりとばかりに彫像の腕に触れる。
白い指がそっと修復されて綺麗になった彫像の表面をなぞった。
「確かに、これを修復するのには大分手間は掛かりましたけど」
つ、と彫像に向けられていた視線が月に向く。
「貴方が言っていたものを見てみたかったんです。私も、これの研究主任を任された人間も」
白い容姿の中で唯一深い色の瞳が少しだけ細められた。
「それに礼を言うのは私たちの方です。貴方の言葉がなければ最初から無かったものと諦めて取りかかっていたでしょうから」
新しく調査をせずこれが現存する状態だと結論付けてしまい、残った腕はゆっくり海で分解され消えてしまっただろう。
手間の掛かる作業でも構わないと、純粋に見てみたいと思わせた月の言葉が腕の修復の結果を生んだ原動力なのだ。
「なんだか、こういうのは照れるな」
「おや? 月くんが照れることなんてあったんですね」
「馬鹿、茶化すな。……本当にもう一度見られるなんて」
両腕を失った状態で発見された彫像を目にした時には思いも寄らなかった。
片腕だけなのだとしても矢張り差し伸べられる手があるだけで、違う。鮮明に焼き付いた記憶よりも傷んでしまった彫像は、これから訪れ見る人々に隔てなく温かな微笑みと手を差し伸べるのだろう。
「ありがとう」
きっと大衆の目に触れるようになるには今暫く時間は掛かるのだろうけれど。
それでもきっと遠くない未来、”春の微笑み”は人々の目に触れる機会を与えられる。
「いいえ、どういたしまして」
素直に礼を告げれば、傍らに立つ学芸員は普段見せないはにかんだような笑みを微かに浮かべた。
>>デスノ博物館パラレルつづき。
こんなオチでした。おそまつ。
「あーあ」
「やっちゃったね…」
ぼんやりと最後に言ってのけたヴィンセントは寝起きで、金髪に寝癖までつけていた。
それを見留めてそっと手で梳くザクスを余所に隆景の視線は床に向けられている。決して安くない陶器が割れて、破片が散乱していた。
白磁は見事に原型を止めていない。
「割ってしまったんですか」
じっと見下ろしている隆景の背中に淡々とした声が掛かった。
「ああ、ニア」
「ふわふわー」
「寝ぼけて人の髪を弄らないで下さい」
ぎゅっと小柄なニアを抱き込んで柔らかな癖毛を弄って遊ぶことにしたらしいヴィンセントが笑う。
なんか変な光景だなぁと隆景は内心思った。
迷惑そうにしているニアの髪の毛を弄るヴィンセントの髪の寝癖をザクスが直している。
「あのね、」
「とりあえず割っちゃったものは割っちゃったもの。仕方ないね」
「ヴィンス、割った本人が言う台詞じゃない」
「そう?」
「とりあえず動かないで下さい。後始末はしますから」
するりと金髪から手を離したザクスがまともなことを言う。
「そうなの?」と振り返ったヴィンセントに笑って、ひょいっと割った陶器の上を跨ぎ、箒を持ち出してきたその手から隆景が箒を奪った。
「……隆景君?」
「僕がやるよ」
「良いデスヨ?」
「だって、あんまり調子良くないんでしょう」
さっき通り抜けた際に少しだけ咳き込んだのを隆景は見逃していない。
返事も聞かずさっさと箒を動かして後始末を始める隆景を見下ろして、ザクスが笑った。
「うーん、イヴェールには勿体ない奥さんになりそうですネ」
>>何をさせても私の書くヴィンスは頭の弱い子。
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