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謂わばネタ掃き溜め保管場所
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 呼吸することさえ下手な大人だった。そんな大人は時を経て邪魔をすることに関しては本当に上手くなった。にこにこと笑みを浮かべて、血色の悪い白い指先が与えたのは奇抜な色紙に包まれたキャンディ。
 その一つを手の平に落とし、自分の分の包み紙を摘んで、血色の悪さと相まった酷く赤い舌先がキャンディを攫っていく。
 自分は、そのキャンディの行方を追っている。
「レイムさん? 眉間に皺寄ってますヨ」
「誰のせいだと思ってるんだ、誰の」
「私のせいですネ」
 溜まりに溜まった報告書の手伝いを申し出たのは友人としての善意だったのに。少しだけ驚いた顔をして、次にいつもの笑みを浮かべて一緒に執務室に入ったまでは良かったのに。
 一向に進まない報告書に手を焼いている現状に午後の陽気は毒にしかならない。
 大きく取られた窓からは緩やかに忍び寄る午睡の気配。陽光の下だと殊更分かる血色の悪さが眉間の皺を更に深くする。
 その男にしてはすらりと伸びた指が回す羽ペンの軸の切っ先。弧を描く軌跡を止めるために伸ばした腕は呆気なく相手に絡め取られた。羽ペンと共に腕を解放されて溜息を吐く。
「頼むから仕事してくれないか」
「してるじゃないですか。失礼な人だなレイムさんは」
「こっちは自分の仕事を後回しにお前の報告書を手伝ってやってるんだ!」
「ええ」
 思い切り机に手の平を打ち付けて上がった音と同時に吐き出した不満を、たった一つの相槌で流された。ふっと笑む表情はいつも浮かべている笑顔とは性質が異なり、口を噤む。
 この大人が上手くなったことの一つにこういった遣り取りがある。
 出会った後数年は内面を取り繕う余裕など欠片もなく、むき出しの感情に良く八つ当たりされたというのに。
 今じゃ感情を奇異な仕種と口調で誤魔化して奥底に沈めてしまう。

「ザークシーズ」
「ハイハイ?」
「疲れてるんだな? お前」
「……はい?」

 ぱちり。隻眼の赤が瞬き、作られた表情が落ちる。
 伸ばした手の行方を今度は阻む気配がない。触れた血色の悪い頬は、見た目が与えるまま冷たく、矢張りと内心歯噛みした。この大人が上手くなったつもりで、長い付き合いになる自分に全く通用しないものがある。我慢だ。どうせ見通す。だから自分の前では無理などしなくても良いのに。手の甲に重ねられた白い指先はもっと冷たい。
「粗方は終わらせてやるから、お前は少し寝ろ」
 本来なら報告書が苦手とはいえ、ここまで溜めることもないだろう。
 最近騙されそうになるが元は真面目すぎる性分の、このどうしようもない大人は、机に自分の許容量を超える分を残してしまうほどに忙殺されたのだ。
 ぱちぱちと繰り返される瞬き。そっと離れた指が掛けられた小さな鞄へと伸びる。中を満たすのはいつだって甘味の類だ。器用に摘み上げた先程とは違う包み紙のキャンディを何個か机の上に落とし、ザークシーズは笑った。
「本当に君はどうしようもないお人好しだ」
「そうだな、私もそう思う」
 くすりと笑みが落ち、素直に踵を返した姿が、そのまま部屋に誂えてあるソファへと沈む。音が殆ど無い、奇矯な言動とは対角にある洗練された騎士としての一端を垣間見せる動きだった。ソファからはみ出る彼の上着が緩やかに床に着くのを見届ける。
「それじゃ、少しだけ寝ますカラ」
「ああ」
「後で文句言わないで下さいヨ」
「ああ」
「おやすみなさい」
 狭いソファの上で器用に寝返りを打ち背もたれの向こうに顔を隠す姿と、不釣り合いな机上に落とされたキャンディを交互に見遣る。まだ、先程寄越されたものでさえ口に放り込んでいない。
 ただ自分は、凡そ血の通っていることを疑うほど血色の悪い顔で唯一、熱を帯びたあの赤い舌先に攫われたキャンディの行方を思う。
 細く折れそうな身体に吸収され糖分に成り果てた、わざとらしい甘味の味はまだあの舌に残っているだろう。
 告解の如く囁かれた言葉と共に。

 ――でもね、寝る時間が惜しくて堪らない。
   私の未来は死に絡め取られているのだから。

 同じような言葉を聞いたことがある。それはまだ自分が幼い頃。レイズワースに逗留していた頃。


**

 気に入らない。気に入らない。何が気に入らないのか分からない。
 レイムは荒い足音を隠すことなく、宛がわれた部屋に向かう。バタンと乱暴に扉を閉め、ベッドにそのまま沈み込んだ。窓の外はまだ明るくて、本当はやることもある。でも今はそんな気分になれなかった。
「なんだっていうんだ」
 弱々しい声が口をついた。出てしまえば後はもう済し崩しに愚痴がぽつぽつ出てしまう。独り言のそれは部屋を満たし、ゆっくりと静けさに変わっていくのだ。その沈黙が痛い。
「私だって、別に居たくて居るんじゃない」
 愚痴が弱音にまで行き着いた。滲んできた涙で視界が歪み、慌てて目を擦る。邪魔になった眼鏡を脇に置いて、枕に顔を埋めた。ぐすっと鼻を鳴らし落ち着くまで待つ。ああ、何で自分がこんな思いをしなきゃいけない。
「というか大人げないんだ。子ども相手に」

 主の使いで訪れたレイズワース家にお世話になることになった経緯は、大抵の使用人が聞くと同情するほど理不尽で身勝手な話だ。主曰く文の返事を貰うまで帰ってくるな、である。幼いレイムはレイズワース家の当主であるシェリルが文を読み終えた後、消え入りそうな声で「お返事を頂けないと、私、家に戻ることが出来ません」と告げた。穏やかな笑みを浮かべるシェリルが、一瞬目を瞠る。そして良いことを思いついたと手を叩いた彼女は無邪気だった。そして朗らかに一言。「だったら暫くここにいたらいいわ」。
 その後はあれよあれよと部屋まで与えられ、子どもにも出来る雑用をしながらレイズワース家で過ごしている。余所者のレイムを疎ましく扱うものは一人もいなかった。歳の近い当主の孫娘には懐かれ、孫娘の母君も優しい。いい人達ばかりだ。
 ――あいつを覗いて。

 思い出したら腹が立ってきた。本当に大人げない大人だ。威嚇だろう、ぶつからないよう投げつけられたインク壷が勿体無いと思った。結構な誂えのもので、自分で買うとなったら何年働かねばならないだろう。
『傷が開く、そんなに自分を痛めつけても意味がないだろう?』
 純粋な心配からだったのに。
 光が差し込むと、病的な白さと細さの男の髪は不思議な色彩を纏う。レインズワース家が守る”扉”の前にある日突然現れた男は名を暫く名乗りたがらなかった。見つけたのは自分と当主の孫娘のシャロンだ。黒い外套、黒い礼服、血に塗れた白い身体。手負いの獣みたいな男は、保護されてからと言うもの大体がぼんやりと窓辺で過ごしている。
 普段は大人しい。無気力と言うべきか。そんな男は突然発作を起こしたように、負った怪我をほじくり返す。失ったばかりの眼球をまた抉るようにする。その男にしては細くて綺麗な指先で。今日もまたそんな状態で。偶々見つけたのがレイムで。そして、先程の言葉を掛けた。
 幼い子どもに掛けられた言葉に男は激昂した。大人らしくなく、途中からは何を言ってるのかも聞き取れなくなっていく。しかし投げやりに最後に吐き捨てられた言葉だけは聞き取れた。そして聞いた瞬間、咄嗟に手にしていた書類を男に投げつけてしまった。
「馬鹿、……なんで死にたかったとかいうんだ」
『どうせ私が死んでも誰も困らない』
 その言葉が悲しかった。
 多分放っておけば彼は死んだのだ。発見が遅くても死んだ。偶然でも直ぐに見つけられたことを良かったと思ったのに。全て否定する態度が耐え難かった。彼が救えなかったという主人の代わりには誰も何もなれないだろう。けど新しく彼が生きるための何かを、彼はここで見つけられるんじゃないかと。見つけられた良いと願っている。
 今もだ。
「ばか、馬鹿ザクス」
「悪かったよ」
 ぐすぐすと鼻を啜り漏らした悪口に返事が返った。
 慌てて眼鏡を取り、掛けて、扉の前に気配もなく佇む影を見詰める。色素が薄くて、顔色は決して良いとは言えなくて、端正な顔立ちだが今は半分包帯に覆われている男の姿を。
「……え? え、いつ」
「今。一応ノックはした。ただ……声が返ってこないのに気配はするし……その、何かあったのかと」
「何もない」
「ああ。その、……すまなかった。少し苛立っていて、お前に八つ当たりした」
 いつ入ってきたのか分からなかった。でもその理由は何となく分かる。ゆっくりとベッドに近づく足音は注意しないと聞き取れない。
「助けて貰って、あの言い分はなかった。本当にすまない」
「それ、……誰かに言われて来たのか?」
 そっと差し出されたのは先程男に投げつけた書類だ。受け取ると困った様に視線を彷徨わせる男を見詰める。小さく口を開き、何かを言いかけて、閉じる。二度繰り返した後、男は溜息を漏らした。
「ああ、シェリー様とシャロンに」
「ザクスは」
「うん」
「まだ死にたいと思ってるのか」
「……よく分からない」
「分からないなら死にたいなんて言うな」
「ああ、すまない。ただどうして生きているのかと思う時があるんだ」
 ベッドに男が腰掛ける。涙を乱暴に拭ったレイムの目許に気付いて指が伸びた。先程自分自身を傷つけた指とは思えない優しい手付きで。
「私は、やることがあるんだ。……これでも多分」
「なら」
「でもそれは救えたら、の話だった。救えなかった私は、どうして自分だけ生きて、暖かい場所を分け合って貰えるのか分からなくなる。そうすると苛立って訳が分からなくなるんだ。……お前にこんなこと言っても仕方ないけれど」
 それがレイムを傷つけた免罪符にはならない。男がそう言う。
「生きてるから、だ。それでお前を嫌いじゃないから、だ」
「……え?」
 暖かい場所を与えられるのは、間違いなく彼が生きていて、そうして彼を少なからず悪くは思わないからだ。深い傷が癒えるには時間が掛かるのだから。それなのに惜しみなく与えられる暖かさを受け取れない男は実直だ。そして不器用だ。
「だからもう死にたいというのだけは止めてくれ」
 絶望は波打って何度も何度も抗いがたく彼を襲い苦しめるだろうけど。
「息が止まりそうだ。……私まで」
「レイムまで?」
「そう。私まで」
 ひたり。片方しかない真紅の瞳に視線を合わせると、首を傾げた彼が緩やかに口角を上げた。
「それは良くない。命の恩人まで殺したとなっては流石に人でなしになりそうだ」
「子ども相手に本気で怒って物を投げつけてくる時点で、割りと片足突っ込んでるぞ」
 ふふ、と相手が笑みを零す。初めてではないかもしれないが、こんな風に穏やかに笑った顔を初めて見た。
 でも落とされた言葉に胸が締め付けられる思いがした。彼はこんなにも苦しいと、レイムは思う。

「有り難う、レイム。でも、私はたくさん殺しすぎて、奪いすぎて、未来はもう死に絡め取られている」

 ――だから、そこまで気に掛けなくて良い。

 

**

「レイムさん、レイムさん」
「……うん?」
 肩を揺さぶられて、意識が浮上する。穏やかな午後の陽気に当てられてうとうとしていたらしい。白い手がひらひらと目の前で振られた。
「起きてます?」
「お前はちゃんと休めたか?」
「ちょっと、質問に質問で返すのは失礼ですヨ。おかげさまで少し楽になりました」
 にこり。笑う笑顔に、今し方見ていた夢の延長を描く。背中にまで伸びていた髪は邪魔だと言ってばっさり切り落としてしまった。あれだけ衝動的に繰り返した自傷行為も無い。隠していた甘味好きも隠すことを止めて。色々変化した中、ただ色の白さだけ、線の細さだけは全く変わらくて。
「レイムさん?」
 白い手を取る。相変わらず冷たい手だが、休憩を取る前よりは余程良い。それを額に押しつけてレイムは目を瞑った。
「お前が、変なことを言うから」
「ハイ?」
「昔の夢を見た。最初の喧嘩の時の」
「ああ、貴方ってば本当に昔っから怒り方変わらないですヨネ」
 思い出したのだろう。心底楽しそうに笑う声が、耳を擽る。昔より笑う様になった。ちゃんと笑える様になって、でも矢張りあの時抱えた絶望も闇も彼の中には根を張っている。だから心配で仕方ない。
「誰のせいだ、誰の」
「でも前より怖くなったかなぁ」
「え?」
「レイムさんには昔から敵いません」
 パンドラ最強と謳われる男の口が、本当に敵いませんと繰り返す。少しだけ拗ねた響きさえ含んで言われれば。
「ああ、だってお前は昔から手が掛かるから」
「小さな子どもだったくせに」
「その小さな子どもに面倒見られてたくせに」
「……そんな昔のこと、忘れました」
 戦況が悪いと視線を逸らされ、机に転がるキャンディに気付いた指が摘み上げた。眠ってしまう前に机に落とされたそれらは一つを除いて手つかずだ。最初に貰った一つだけが小さな欠片になって口内に残っている。
 器用に包み紙を外す手が、白と毒々しい赤いキャンディとの対比を見せて目の前に差し出す。甘いその塊を。
「ザクス?」
 口を開けた瞬間放り込まれたキャンディは、目の前の男が好む甘すぎる果実の味。
 かりっと歯を立てると、勿体無いと笑う。優しい笑みの中に、矢張りやりきれない絶望がある。

 だから思う。
 もう一つと摘み上げた白い手が、白い顔で唯一熱を感じさせる赤い舌先が攫うキャンディの行方を。

 


(その甘さが少しでも孤独を誤魔化せるのなら)
(そうやってずっとずっと誤魔化されてしまえば良いのに)



>>改稿、付けたしぽぽいのぽい!

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「どうしてなのかなぁ」
窓に切り取られた空が青い。綺麗な綺麗なブルーに、自分さえ見失いそうな感覚は何とも言えない虚無感さえ寄越す。
静かな室内も良くないなとオズは淡々と思った。どうしてこんな時でさえ冷静に物事を考えてしまうのか、自分にも腹が立つ。
頭は酷く落ち着いている。
だから信じたくないと思う感情など無視して事実だけを拾い上げて整理してしまう。
なんて嫌な性格。
なんて薄情な自分。
友人が死んだのに涙一つ出てきやしない。
「どうして、こんな」

 ――嗚呼、世界は何か一つを欠いてもいつもと同じく廻る。

こつんと窓に額をつけ、些か不自由な格好で見上げた空は雲一つ無い快晴。
青。綺麗な青。けれど友人の瞳の色は空より海の深い色に似ていた。
よく動く表情、どちらかというとしかめっ面と怒った顔ばっかり見ていたけど、笑った顔も照れた顔も知っている。
自分を立たせてくれたのは彼で、いつか自分たちの家の関係性を変えてやろうと誓ったばかりだった。
あの時合わせた手の感覚も未だ覚えている。
「なんだろう、これ」
泣きたいのに泣けないのか。辛いのに辛くないのか。感情が掬えない。
少しだけ緩めた襟元の、その襟に僅かに首に付いた歯痕が触れて、オズはゆっくりと指を這わせる。
先程噛まれた傷口と呼ぶには小さな痕は、オズがチェインとして契約を結ぶ少女がつけていったものだ。
慰めるのには頬を吸うのが良いのだろうとよく分からない解釈を少し前からしていた彼女が、オズを元気づける為に、それでいて些か行きすぎた行動だったが、瞬間的な痛みでじんわりと目尻に涙が浮かんだ。
その涙が行き場を無くした感情に救いを与えているのに、オズは気付いている。
信じられないくらいに、きっと感情が追い付いてないだけの自分は、未だ泣けなくて。
最期に見た赤が見慣れた、それでいて忌むべきものだと脳裏に蘇って首を振る。

まだ覚えてる。
その手の温かさと、ぶっきらぼうな物言いをするすとんと落ちるような癖のない声。立たせてくれた時の力強さも。

でも忘れてしまうのかも知れない。
悲しみをいつまでも抱えてはいけないから。人はいつだって少しずつ色褪せていく記憶を重ねていく。


片腕で上半身を起こして、オズは立ち上がった。
護衛が付いていないから出来れば部屋に居ろと言われていたが、ここは屋敷全体が警備され保護されている。
少しくらいならどうってこともないだろう。
数日部屋に篭もってばかりで、身体も動いてなかったし丁度良い。
廊下に見張り番がいないことを確かめてから、オズは部屋を抜け出す。
行き先は決めていなかったけれど、誰かと話がしたくて自然と足はある場所に向かっていた。





無神経ですねぇ、と苦笑した声に。確かになぁと内心隣で思いながらレイムは神妙な顔持ちで訪れた少年を見る。
ベッドに横たわったままのブレイクは白いシーツに埋もれそうなほど、血色は良くない。
しかし具合の悪さなど見せず、形の良い指をくるりと宙に回して笑う。
表情は見えなくても大方相手の気配でどんな表情をしているのか分かるのだろう。
「あのね、オズくん。全部を覚えてるなんて無理ですよ」
正確な記憶保存装置でもあれば別だけれど、人は生きている限り記憶を蓄積していく。ずっとずっと鮮明に詳細に覚えて入れるだけの能力はない。
きっぱりと事実を述べた声は、いつもより優しい。
「けどね、忘れないってことは出来ると思いマス」
たくさんのものを失いすぎた男はそう言って笑ったまま、手を伸ばした。
「矛盾してるよ」
「そうですネェ」
絞り出される少年の声に寸分違わず額にデコピンを食らわせ、痛いと小さく上がった非難に小さく声を上げて笑う。
「確かに全てを覚えてるのは無理です。けど、存在を忘れないってことは出来るんですよ」
にこり。
そういって笑ったブレイクがふっと笑みを消す瞬間の表情は、俯いているオズには見えない。
少しだけ気遣わしげなレイムの気配に気付いたブレイクがとんとんと安心させるように手を叩いた。
「オズくん、泣きました?」
「なんで?」
「泣いて良いんですよ? そうじゃなかったら怒って良い」
「なんで?」
「困った子だ。友人を亡くしたんだ、誰も君が無様に泣いたってみっともないって良いやしませんよ」
酷い物言いに思わず返す言葉を無くしたオズが、目を瞬かせる。
「こら、ザクス」
「自分の感情が今、分からないなら、ちょっと散歩でもして感情の整理でもしてきなさい」
ぽんと少年の肩を押した、ブレイクが肩を竦める。
やれやれと大袈裟に息を吐き、
「それにね、おじさん病人なんデスヨ。ちょっと休ませて下さいネ」
そう言ってベッドに身を沈める姿を見ては、これ以上長居をするわけにも行かず、オズは「ごめん」と一言だけ告げて椅子から立ち上がった。
年相応の頼りない後ろ姿を見送って、レイムはベッドに横になったブレイクを見下ろす。
「ザクス」
「嫌ですねぇ、ホント。……泣いて悪いわけ無いのに」
まるで自分で自分を戒めてるみたいだ、と付け足したブレイクが見下ろしてくる視線に気付いて笑う。
「ほら、レイムさんも大人しくベッドに戻ってくださいよ。けが人なんだから」
はたはたと振られる手は矢張り血色の悪さを物語る。
なまじ腕が立つから今まで怪我人として扱われる事の少なかった男は、ふとベッドの上で背を丸めながら器用に寝返りを打つ。
「大丈夫ですよ」
「うん?」
「オズ君には、アリス君がついてますから」
そう言うブレイクが、もう見えない瞳を彷徨わせ、そして飽きてしまったのか瞳を瞑る。
これ以上聞いても今は何も話さないと言いたげな様子にレイムも自分のいたベッドへと、杖をつきながら戻った。
歳にしては聡明で、快活な少年の終ぞ見たことのない様子を脳裏に浮かべて溜息を吐く。
大丈夫と言うのならきっと大丈夫なのだろうけど。
あとはオズが自身の中で引き出す問題には間違いなく、何の力にもなれない自分は駄目な大人だなとレイムは小さく自嘲する。

「こら、レイムさんまで落ち込んじゃ駄目ですヨ」

その気配を察したのか向こうから上がった声にレイムは苦笑した。

「分かってる」








綺麗な空だ。
ああ、そういえば庭先でなんてことのない日だと叔父が言って茶会を開いた日も綺麗な青空が広がっていた。
その下で笑って、話をした。
ぼんやりと屋敷に隣する庭園に佇んでオズは思い出す。
馬鹿と何度言われたのだろう。自分の自己犠牲は誰も救わないと教えてくれた声が、照れたように応じた日。
きっとこれからもそんな穏やかな日を彼と過ごせると思っていた。
「……約束したのに」
笑顔が思い出せるのに、共に思い出すのは彼から滲んだ血の色だ。命そのものだったような、鮮烈な。
降り注ぐ陽光を眩しく感じ俯いてしまったオズが、近寄ってくる気配にはっと顔を上げる。
がさりと手入れされた垣根から出てきたのは艶やかな漆黒の髪の少女。
「アリス?」
「オズか。全く私がいない隙に部屋から居なくなるとは」
「ごめん」
木の枝に引っ掛かって些か乱れた髪を無造作に手ぐしで直しながらアリスは、オズの元へと近寄る。
髪に絡まる葉を見つけ手を伸ばしたオズが、その手を反射的に取られた。
「アリス、どうした……」
「お前にやろうと思っていた」
「え?」
少女の手から渡されたのは小さな花だ。割と知識の深いオズが名前を思い出せないよく分からない小さな花。
一つは割き綻び一つは未だ蕾のままの、毟り取られたという風情の花が手渡され、オズは首を傾げる。
「ちょっと散歩してたら見つけたんだ」
「うん」
「お前にやろうと思ったから持ってきた」
「うん」
「……その、あいつになんだか似ている色だったから、少しは」
ふと言葉を詰まらせたアリスが困ったように視線をうろうろさせる様子と手の中の花を交互に見遣る。
真っ青な、空と言うより晴れた日の海に近いような色。
最初から真っ直ぐに自分を見詰めてきた友の瞳と似た――。

「アリス」

視界が滲む。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
目の前の少女を、貰った花を潰さない様に気をつけながら腕に抱きこむ。
小さく戸惑った声が上がったが、腕の力を緩めることは出来なかった。
「オズ、おまえ」
「ありがとうアリス」
アリスの肩に顔を埋めるようにしたオズの表情は、アリスからは見えない。ただ少しだけオズの触れる肩が冷たい。
小さく上がる嗚咽を黙って聞き入れ、小さくまるで大切な何かを繋ぎ留めるように呼ばれる名をアリスは思う。
行き場をなくした感情を持て余し泣くオズの背中に片腕を回し、あやす手つきで背中を撫でた。
漸く泣けた少年に、少女の姿であるチェインは何も言わない。


やけに広く感じる晴れ渡る空を、少年が落ち着くまで見上げて、ああ、なんて憎たらしいと毒づく。
こんなに良い天気じゃ泣くことが出来ないやつが多いのに。
それでも晴れた空でなければ、彼の瞳に似た海の色は見えないから、まるで世界まで惜しむようだなんて。





>>GF5月号ネタバレ。エリオット追悼。

ねぇ、レイムさん。私と遊びませんか。
そうさらりと寄越された言葉に何も言えなかったのはいつもと違う、本当に悪意も演技もない表情だったからだ。
窓辺に佇む色素の薄い彼は今にも溶けていってしまいそうに支えが不安定にも見えた。
「……ザクス、何を?」
「いや、ね? ちょっと暇だから」
何を言う。
机の上には山積みの書類があって、今も自分のもの以外の書類を必死で片付けているところだ。何を持ってして暇というかと眉を寄せても仕方がない。
以前なら手伝えとも自分の分は自分でやれとも言えた。
今、それを彼に言うことは出来ない。見えていないものをどうやって始末させればいいのか分からない。
「嫌だな、レイムさん。そんなに私と遊ぶの嫌です?」
「違う」
「そうですかね」
「そうだ」
ふ、と。
紙面を滑らせていたペンを伸びてきた血色の悪い手に奪い取られる。ぽたりとインクが落ちて染みを作った。
「ザクス」
「……ね、レイムさん」
影が落ちる。顔を上げれば本当に血の気が余りない白い顔が間近にある。そっと薄い唇が言葉を紡いだ。あまりにもあまりにも悲しすぎて一瞬理解出来ない。
理解が追い付く前にと距離を取ろうとする腕を掴んで引き寄せて、机越しに抱き寄せると積み上がった書類が一斉に雪崩れ落ちる。
あーあと困ったように声が上がり、細い身体を抱き締めた腕に力を込めると子供をあやすように背に手が回る。
「例えですよ。例え」
「馬鹿を言うな」
小さく小さく溜息が落ちる。
とんとんと肩を叩かれて視線を向けると、目は見えていないはずの彼が真っ正面から深紅の隻眼でこちらを見詰めてきた。
ふと細められる深紅の瞳は宝石のように艶やかで僅かに焦点がずれる、それだけが彼の光が失われてしまっていることを告げている。
本当はまだ見ていたかったろうに。
痛みを与えられれば許されていない気がして助かると言った彼が望む言葉は残酷だ。
こんなにも鮮明に鮮烈に自分の記憶に、自分たちの記憶に入り込んで置いて今更、失うと理解しながらその温度を失いたくないと居もしない神に縋りそうな思いを抱かせて置いて今更、忘却を望む言葉を口にするなんて

「お前、本当酷いな。ザクス」
「……ええ。本当。どうしようもないですね」

泣いてはいけないと堪えた声は震えては居なかったはずだ。
けれど白い指先は眼鏡の下に滑り込み目尻を優しく撫で、そして……困ったように笑顔を浮かべる。
「私の我が侭なんて許さなくていいです。許さないで良いよ、レイム」
忘却なんて出来っこない自分を見透かして、言い聞かせるように言われた言葉もまた悲しい。


――ねぇ、もし忘れてくれるなら私のこと、忘れてくれませんか。



>>最新刊を読んだので久しぶりに眼鏡と帽子屋さん。
   この二人が好きすぎてつらい。

それは鮮やかで鈍い赤と混じった様に現れる記憶。
乾いた呼吸音が気持ち悪く、まるで己のものではない様な錯覚を起こし、耳を塞ぎながら歩く場所は何処とも知れない。
暗い路地で逃げ回る靴音が矢張り気持ち悪くて眉を顰めて消してしまおうと思う。
助けを請う声は酷く掠れ歪んでいた。「ああ、気持ち悪い」と握っていた剣を振るえば鈍い感触が手に残る。
瞬間幼い少女が名前を呼ぶ幻聴を聴いた。今は呼ばれない名前で呼ぶ、その声をよく知っている。

「……おじょう、さま」


   ...花冠の埋葬


パンドラ内部に宛がわれた一室、机の上に積み上げられた書類と格闘していたレイムは小さく聞こえた声に顔を上げた。
少し離れた場所に形だけの小さな応接用のテーブルとソファがあるが、其処ではなく窓際に一つだけ配置されたソファの方から聞こえた声に耳を傾ける。
「……ザクス?」
呼びかければ、自分の方からは背もたれが邪魔をして見えない相手の身動ぐ気配がする。するりと持ち上げられた手がはたはたと振られた。制服の袖口から伸びる手は男性にしては細く、それでいて血色も良くはない。
暫く手の動きを追っていたレイムが立ち上がろうとすると察したのか声が掛かった。
「何でもないです、レイムさん」
寝起きのいつもより明瞭さを含まない声と緩慢に身を起こす姿を見遣ってレイムが首を傾ると、相手の背中まで伸びる銀糸がさらりと肩で一度留まり落ちる。
ついと長い前髪に隠れた左目がレイムの姿を捉えた。
「魘されていたんじゃないのか?」
「……いいえ?」
問われた言葉に作り物めいた笑みを浮かべたブレイクが、長い前髪を掻き上げて億劫そうに溜息を漏らした。
血色の良くない肌に銀糸の髪、その中で見える真紅の瞳がやけに色を伝える容姿は彼が瞳を伏せてしまえば儚げに映る。
彼の身を包む落ち着いた色で統一されたパンドラの制服だけが現実に引き留めているかのようだ。
「夢を見ていたのか?」
再度問う声にブレイクが首を傾げる。
視線を宙に彷徨わせぽつりと呟かれたのは「分かりません」という一言で、夢を見た後に良くあることだとレイムは納得する。曖昧な夢は見ている間は酷くリアルだというのに覚醒した瞬間に輪郭が暈けてしまう。たぶんそれなのだろう。
けれどと内心思う。魘されるほどの夢は覚めた後も覚えている可能性が高い。
二人きりの部屋で小さく上がった声を聞き逃すほど鈍い覚えもないし、ただ言いたくないだけか。
「レイムさん、眉間に皺が寄ってマス」
そっと伸びてきた白い指が眉間に触れて遠慮無くぐりぐりと寄せられた皺を揉み解す。
揃った両目が銀糸の向こうで瞬いて笑った。
「ザクス」
「さぁさ、お仕事して下さい。まだ残ってるんでしょう? 邪魔はしませんから」
言い残してソファに戻る姿に少しだけ違和感を感じる。昔の彼ならば本当に寝ているのか分からないほど睡眠欲やその他の一次欲求でさえ希薄な印象を残していたが、今の彼は必要以上に睡眠を貪る傾向がある。
現に今もソファに身を横たえて目を瞑ってしまった。
どうにも聞いたところ、存在自体を人から異質なものへと変えた反作用に近いものらしい。
ブレイクが人であった頃の存在の定義は此方側に、現在チェインと変わった存在の定義は彼方側――つまりアヴィス側にある。
此方側にチェインが実像を結ぶ際、契約という寄り代がなければ満足に力を振るえない事は知っていたが、契約を為しても影響がある存在もあるということだろうか。
ブレイクがチェインとして持つ力は深淵の闇にとっても特殊で異端でしかない。
深淵の闇にありながら深淵の存在を否定する事で”消滅”を導く力。
嘗てブレイクが人間として二度目の契約で手に入れた”イカレ帽子屋”としての力は、現在彼のチェインとしての力でもある。
「……ザクス?」
小さく寝息が聞こえてきたソファに声をかけても今度は反応が無かった。
再度眠りに落ちたらしい自身のチェインを起こさぬように近づくと、ソファの上に器用に収まって眠ってしまっている。
僅かに眉間に皺を寄せ身動いだ姿に、矢張り夢見は良くないのかもしれないとレイムは思い、起こしてしまう可能性も考えながら皺の寄った眉間を、先ほど彼がしたのとは違った優しい手つきでとんとんと触れた。
一瞬止まった呼吸に起きてしまったかと触れていた指先を離したが、彼の寝息は変わらない。
少しだけ穏やかになった呼吸の音を聞き、机に戻る。
積み上げた書類の中には今日中に処理しておかなくてはいけないものもある。邪魔ばかりをする印象を持たれがちなブレイクだが、本当に忙しい時に絶対に邪魔をしない分別は心得ていた。
現に今も何もせず会話さえも億劫だろうと寝てしまう手段を取った。
有り難いことだとは思うが、小さく息を呑む声にレイムは顔を顰めるしかない。
本当は眠りたくはないのに選択させてしまったのではないだろうかなど不毛な問いでしかないし、笑って一蹴されるのは目に見えて分かってはいるが、今のブレイクの夢見の悪さは余り良い状態には思えなかったのだ。
微かに吐き出される息と一緒に聞き取り辛い大きさの、その声が呟いた言葉に尚更確信を持った。


***


ふわりとシャンパンゴールドの髪を揺らして首を傾げたシャロンが向かいに腰掛けたレイムを見遣る。
「それで?」と質問した筈が沈黙したまま答えが返らない。午後の穏やかな陽気の中には似つかわしくない妙に重い空気だ。
「レイムさん?」
「……いえ、何と言っていいのか分からないのです」
緩く頭を振ったレイムが癖で眼鏡を掛け直す様子を見つつ、紅茶の入った白磁のカップを口元に運ぶ。シャロンの華奢な指がふと止まった。口元に運ぶ筈のカップはソーサーの上に戻され僅かに触れた音にレイムが顔を上げる。
「ブレイクが言う”お嬢様”ですが」
「……シャロン様もそう思いますか?」
先ほどレイムが曇った表情で語った内容は近頃ブレイクの夢見が悪く、魘されていると明らかに分かるのに尋ねてもはぐらかされるというものだった。
些末事と片付けられもするが、シャロンにとって兄のように慕ってきた存在であるのに変わりは無いし何より心配でもある。
寝言でたったひと言「お嬢様」と呟いたと聞かされたが、魘される内容の夢に自分が出ているとは思いたくなかった。
「分かっていて言ったんですか? レイムさん」
「いえ。確信が無かったので」
「意地悪ですね」
さらりと言えばぎくりと肩を揺らす様子に、シャロンは笑む。
今度こそ口元にカップを運び柔らかな香りが自慢の紅茶を一口含んだ。
「わたくしにレイムさんと同じように聞けと仰います? でもブレイクのことです。そんなことをしたらレイムさんが相談に来た事など見通します」
「分かっています」
「……心配はわたくしだって心配ですが」
「シャロン様?」
「たぶん話したくはないのでしょう。余り過去のことは」
夢で魘されて呼ぶ”お嬢様”が自分に掛かっていない事などシャロンには言わずとも分かる。
嘗て己の罪の代償として失った幼い少女に対して呟かれる言葉なのだ。もしシャロンに掛かっているのだとすれば、喪失への怖れだろうが今のブレイクでは可能性は薄い。
良くも悪くも彼は人としての定義を外れた。
それよりも前に恐怖を抱いても克服をする術を身につけていた彼が連日苦しむ事は無いだろう。
「見守るしかないと思いますし。……それに」
「それに?」
「話すなら、わたくしにではなく、レイムさんにだと思います」
にこりと笑って断言すれば目を丸くしたレイムが一瞬言葉を呑んだ。
音も無く立ち上がったシャロンを視線だけで追ったレイムに、窓から覗く午後の穏やかな庭園の様子を眺め与える言葉は限られている。
「さ、レイムさん。お時間でしょう?」
この後に彼が会議に参集されるのは頭の片隅に記憶していた。懐から取り出した時計で時間を確認したレイムが慌てて立ち上がり、律儀に一礼は忘れずに部屋を出て行く。
普段よりも少し速い歩調が廊下から去っていくのを確認してシャロンは溜息を吐いた。
ついと長いドレスの裾に隠れたほっそりと伸びた足を態と行儀悪く鳴らす。貴族の淑女にしては粗野なやり方は彼女らしくは無いが咎めるものは無い。
「”一角獣”」
短く呟かれた言葉に足元に落ち蟠った影がざわりと動く。
「待ってください、お嬢様」
高く嘶いたそれを遮るように冷静な声が落ちた。
視線をあげれば扉の手前にいつの間にか佇む人影がある。先ほど話にあがった良く知る人物にシャロンは笑んだ。
「いらっしゃい、ブレイク。来ると思っていました」
「よく言いますヨ。”一角獣”を使ってここの会話を全部筒抜けにしたくせに」
「手っ取り早いでしょう?」
笑って返されてしまえば反論も何も失ってしまい、ブレイクは溜息一つ落としレイムが先ほど座っていたソファに重さを感じさせぬ身のこなしで座り込んだ。
先の客人の飲み残しがあるカップの縁に指を這わせなぞり、くすりと笑みを零す様子をシャロンは黙って見守る。
「意地悪なのはお嬢様の方ですよネェ?」
相談事をしてきたレイムに向けた言葉をそのまま口にして小さく笑いを零しながら視線を上げたブレイクが首を傾げる。
あわせて首を傾げたシャロンが「そうでしたか?」と返せば面白そうに目が細められた。
「相談するの知られたくなかったでしょうから」
「……まぁ、それはそうでしょうが」
レイムが話があると部屋を訪ねてきた直後、”一角獣”を気付かれぬように使い”イカレ帽子屋”の所に向かわせたのだ。
物質と物質の影を繋ぐ能力のある”一角獣”は人と人で使えば、影を道のように使うことや忍ばせた相手へ自分の意志を伝えることも可能にする。
しかしチェイン同士で使うとなれば多少勝手が違うらしい。
”一角獣”を”イカレ帽子屋”の元に向かわせ、逆にこちら側の情報を相手に見せることも許せば可能になる。
前に一度ブレイクが出来ると言っていたのを思い出しての行動だった。
下手に気を回し動くよりも自分らが心配しているのだと見せてやった方が良いと気付いたのは、彼が深淵に落ち戻ってきた後である。
「お嬢様、性格が一層宜しくなりましたよね」
「誰のせいだと思ってるんですか?」
「私のせいでないのは確かデス」
一つ溜息を深々と吐いて背もたれに重心をかけたブレイクが天井を仰いだ。
窓から差し込む陽光が跳ね、淡く光の線が描き出されているそれを見詰め続け吐き出される言葉は沈黙に呑まれかけた。
魘されているのを気付かれていたのはブレイクだって分かっている。夢見に関しては制御しようがない。
「理由は分かったんですよね」
「……ブレイク?」
「私が魘されている話でしょう? レイムさんやお嬢様が考えてる通り、ここに来る前の、昔の夢です」
決して消えない罪があるのだとすれば、間違いなくブレイクが深淵に落ち、時を超えレインズワース家に保護される前の出来事も該当するだろう。
三桁に及ぶ人の命を己が願望の為に奪い続けた行為を罪と呼ばず何と呼ぶのか。
しかし喪失感と罪悪感が拭えぬまま自暴自棄で過ごした時期ならともかく、今更になって鮮明にその頃の夢を見るのだ。
手に掛けた人間を切る感触も、声も、鼻につく独特の鉄臭い血の臭いも、酷く鮮明に。
「過去を見ているのかとも思ったんですけどね」
「夢なのでしょう?」
「だと思いますよ」
曖昧に笑って首を傾げる様子に僅かに眉を寄せたシャロンが向かい側のソファに腰掛ける。
昔のように隣に腰掛けないのは一応線引きのつもりであった。彼はもうレインズワース家の使用人ではなく、パンドラに所属する或る契約者のチェインに過ぎないと傍目に理解させるための行為。
シャロンの内心に気付いてか一度空いている傍らに視線をやった後にブレイクがシャロンに視線を合わせてくる。
「実際、聞こえなかった声が夢の中で何度も聞こえるんです」
「声?」
「夢をね、見るんです。過去の夢。私が、自分の弱さを認めらず過去を変えようとして関係の無い人間に手を掛けた、そのときの記憶」
夜な夜な人を求めて彷徨い歩いた記憶。路地に凝る暗闇で過去を変える願望の為に躊躇い無く斬った人間達の声を覚えている。
いつだって恐怖に染まり、引き攣った声で助けを求めた。その声ごといつも切り捨てた。
得物を伝う血が生温く不快だったのを覚えている。嫌悪感は自分に有ったのか今ではよく分からない。
たくさんの命を奪い汚れた手で過去を変えたとして自分はまたあの場所に戻れたのか、そちらの方が気になった。
「誰の声ですか?」
シャロンの問う声にブレイクは緩く笑むしかない。
「シンクレア家の、一番末の……私が、」
おいていかないで。一人になっちゃうよ、と涙ながらに引き止めた幼い愛らしい容姿の少女は、過去を変えたかった自分の浅はかな願いによって深淵に引き落とされ犠牲となった。
過去を捻じ曲げた代償に違法契約者として一族全てを殺し深淵に引きずり込まれたか弱い少女。
本来なら、若しくは地位的な裕福は無かったとしても幸せな家庭を持つことも出来たかもしれない未来を摘み取ったのは他でもないブレイクだ。
深淵に引きずり込まれれば、遅かれ早かれ自我は融けチェインに変わると分かっている。
人の輪から外れた原因は自身の罪にある。全てを飲み込むように途切れた言葉の続きをブレイクの唇は紡いだ。
「殺してしまったお嬢様だった、少女の声です」
弱い声だったのに酷く耳に残るものだと静かさが支配した部屋の中で他人事のようにブレイクは思った。
陽光は暖かであるのに暖まらない。冷たさがじんわりと這い上がるようで微かに震えた先で、膝の上に置いた手に暖かな温度が重なる。
「ザクス兄さん」
そっと立ち上がりテーブル越しに手を握ったシャロンが呼んだ。
血色の良くないブレイクの手を取り両手で包み込んで、祈るように手を引き寄せる。
冷たさが一気に振り払われる感覚に資格など無いと振り解くべきかと迷ったブレイクは、温度を甘受するに止める。
何も与えられないより与えられて感じる痛みがあるのなら、自分勝手に罪の贖いと履き違える事ができる。都合の良い自己解釈で自分を救える。
けれど人でない身となって本能で知るのだ。元々心でもってただの自己満足に意味は無いのではないかと疑問付けたものに対して、明確に答えが自身の中から返る。
意味が無いのではなく故に人は弱く強く、チェインの本能を満たす存在である必要不可欠な歪みである、と。
自我を保ったまま存在をチェインに変えたのは深淵の意志が言うには自分のみ。
人間の感性を持ったまま働く本能はチェインに帰属するならば、それこそ酷く歪みを伴っているのだろう。
それはそれで良い。深淵に住まう存在の中でも異質の力を持つ”イカレ帽子屋”としては丁度良い存在定義であるだろう。
理解したつもりで切り捨てた感情の処理が追いつかず無意識下で現れる苦しみだというなら、また酷く滑稽だった。
「覚えてますか?」
「……はい?」
優しい声音が思考の海を彷徨った意識を引き戻す。
シャンパンゴールドの柔らかな髪を揺らし微笑んだシャロンが労わるように手を握り直した。
「花冠の作り方、です」
「……何です? 突然」
唐突に話題を変えた意図が分からず、それでも花冠の作り方を脳裏に描く。
「覚えています?」
再度尋ねる声は他愛も無いように思える、今の質問が重要だと言わんばかりだ。
「覚えてますよ。忘れてません」
「そうですか。良かった」
「……お嬢様?」
「では、私が最初に花冠を貴方に作って貰ったときのことは、覚えていますか?」
言葉に導かれるように脳裏に描かれる記憶。
少女が庭で声を殺しながら蹲って泣いていた。空色のドレスの裾が風に煽られはたはたと揺れ、少女の柔らかな髪も合わせて揺れて、両手で顔を覆って泣く少女は顔を上げない。
片目を未だ包帯で覆った自分は少女を見つけ、どうしたものかと途方に暮れ声を掛けられず距離を置いて立ち尽くしていた。
あれくらい幼い子どもへの接し方を知らなかった。
ふと顔を上げた少女が視線を彷徨わせ自分を見つける。逃げられなくなった自分はゆっくり近寄り、
「――ああ。そうだ、私が教えたんでしたね」
ブレイクの言葉にシャロンは笑って頷く。
少女の足元には無残にひしゃげた花が散乱しており首を傾げた先で、少女がその一つを差し出してきた。
「はい。あの時一緒に頑張って作ってくれましたよね」
花冠が作れないの、と少女が泣きながら言うのでそれ以上泣かれても困ると慣れない手つきで一緒に花冠を作った。
決して上出来とは言えなかったそれを少女は嬉しそうに笑って被り、転びそうになるのを胆を冷やしながら追いかけた。
十数年も前の記憶は多少色褪せてはいたが鮮明に思い出せる。懐かしく暖かい記憶はシャロンとシャロンの母から与えられた。
「覚えてないと思うんですけど」
「……何を?」
思い出した記憶の中で取り零しがあるのか。
シャロンが気遣うよう一瞬目を伏せ、再度正面からブレイクを視線で捉える。
「花冠の作り方は、”お嬢様”が作っていたから分かると貴方は言ったんですよ」
「……え?」
「覚えて無いでしょう? 寝言で言いましたから」
「いつです」
「丁度あの後です。レイムさんと二人で聞きました。それからは、わたくし達二人で密かにしていた事があったんです」
「……二人でですか?」
「はい。ザクス兄さんには内緒でした」
「私に、秘密?」
手を離してソファから立ち上がったシャロンが陽光を差し入れる窓に近づく。
逆光で振り返ったシャロンの顔が良く見えず目を凝らすと僅かに口角を上げて、笑ったようだった。
「きっと手向けが出来ないとその手を下ろしてしまう兄さんの代わりに、わたくし達、花冠を作って」
後の言葉は必要が無かった。
立ち上がったブレイクがつかつかと歩み寄りシャロンの細い腕を取り引き寄せる行為に、彼女は全く抵抗しない。
人であった頃より低い身長のブレイクに言葉もなく抱き寄せられ、ぶつかった肩口でシャロンは続きの言葉を紡ぐ。
「こっそりシンクレア家のお墓に持って行っていました」
シャロンを抱く腕に力が篭る。少しだけ痛みを感じ身じろげば気付いたか直ぐに力は緩められた。
本当に器用で不器用な人なのだ、と思う。
真面目で純粋だったからこそ過去の責務に捕らわれて、罪を犯したのだろう。一途に過去を変えることだけを求めて血を流し続けたのだろう。
未だパンドラ内部の資料では凶悪事件と命付けられる程に、シャロンを抱く腕が、その手が奪ってきた人の命は多い。
許されぬわけが無いと思い続ける本人に与えられた本当の罰は、自身を許せぬまま生き続けてゆく事なのだろう。守りたかった命を救えず、叶えたかった願いは最悪の形で叶えられた未来で生きることは、彼にとってどれ程、絶望以外の思いを抱かせたのか。
ならせめて罪を被った手を伸ばせぬ彼がいるのなら、彼に今守られる自分が自己満足だとしても手向けてやりたいと思ったのだ。
嘗て守られていた少女へ、彼が教えて貰ったという花冠を。
勝手に外を出歩けないシャロンの代わりに出来上がった花冠を持っていくのはレイムの役割だった。
提案した幼いシャロンの言葉に頷いて、忙しい今でも毎年手向ける時期になれば必ず赴いてくれる。
「……ザクス兄さん?」
「……はい」
「声は、貴方が貴方である故に聞こえるのでしょう」
本能でのみ動く筈の異形に身を変えても、残った自我と記憶ゆえに、強い本能に抗うように出てきた抑制に過ぎない筈なのだ。
不器用に引き止める自分を傷つけて良いわけでも無い。
「わたくしは、ザクス兄さんの罪を肯定も否定もしません。出来ません。けれど、兄さんを否定出来ませんよ」
罪があってこそ今の彼があるのなら、罪を厭わず彼を抱きしめるだけだ。
「レイムさんもまた、同じだと思います」
歳の離れた親友の関係を築きながらどこか一線を越えてしまった彼の方が寧ろ、そうなのかもしれない。
告げれば、離れたブレイクが覗き込んでくるのを見計らってシャロンはにこりと笑みを零した。
容姿の中で唯一色素を持った真紅の瞳が一度伏せられる。
「敵わないな、シャロンには」
敬語を取り払った言葉は出会ったばかりの彼の、血は繋がらずとも兄として慕った彼のそのままを表す。
「ふふ。当たり前でしょう? だってわたくしはザクス兄さんの妹ですもの」
調子を上げて宣った言葉に小さく声を上げてブレイクは笑った。


***


連れて行ってくださいよ。
そっと裏口から出て行こうとしたレイムに気配も無く掛かった声は予想外のものだった。
嫌だと何度か言ったが押し切られてしまい、目的地に素直に向かうべきかどうかと悩んでいれば、白い指先が眉間に伸びる。
「ザクス」
「皺。取れなくなっちゃいますヨ?」
「誰のせいだと思うんだ?」
「私のせいですか?」
結局誤魔化すにも良い案は見つからず知らずに目的地への郊外へと向かう道すがら、石畳を走る車輪の緩やかに気だるい音の合間にブレイクの声が落ちる。
「ね、お嬢様に頼まれて墓地に行くんでしょう?」
「どうして?」
「教えて貰ったからです」
「誰から?」
「シャロンお嬢様」
毎年手渡される花冠は潰さぬよう荷物の一番上に包まれてある。
シャロン自ら作る花冠は庭師の作るものとは比べ物にならないほど質素な出来だが、寧ろそれが良いのだろう。
僅かに視線を下げ手提げの荷物を見遣れば、ブレイクの視線もまたそこに向かっていた。
「レイムさん、あのですね」
「……うん?」
「私は君にもお嬢様にも、いっぱい迷惑を掛けてるんですね」
「何を今更」
改まって言うべき内容ではないと良い掛けて、シャロンが花冠を手向ける行為を教えたのなら偏にひっくるめて掛かるのかと思い直す。
本当に今更過ぎて笑みを浮かべたレイムの様子に満足しないのか唇を尖らせわざとおどけた調子でブレイクが返した。
「酷いデスヨ」
「酷いか? 本当のことじゃないのか?」
さらりと返せばふっと緩んだ口元が茶化した言葉使いを一切捨てた。
「確かに。本当……子どもに守られていたようじゃね」
「いや。ただの自己満足だ。シャロン様もそう仰っただろう? これは私達の勝手な行為なんだから」
「でもね」
車輪が速度を緩める。
建物がまだらになり開け始めた景色は街の郊外に辿り着いた事を示していた。
閑散とした寂しさばかりが目に付く墓地の入り口に止まった馬車を降りたところで肌寒い風が強く吹いた。
「私は、勝手に救われた気になりました」
風が音を浚っていく中で呟かれた言葉を確かに聞き取ったが相槌は打たなかった。
きっと返事は望まないだろうと踏んで墓地を進んでいく間、歩調を合わせ隣を歩くブレイクの背中まで伸びた髪が時折風に遊ばれる。
銀糸が肩から滑り落ち邪魔だと押さえた手は元々血色が良く無いのに冷たい風に更に色を失っていた。
「大丈夫か?」
「大丈夫ですよ?」
見上げてきた真紅の瞳が緩く細められ、視線はすぐに正面に戻る。
何度も足を運んできたのは互いにそうだろう。尤もブレイクは墓標に触れることも出来ず立ち尽くすことが多かっただろうし、触れてはいけないと思っていたのかもしれない。
犯した罪と引き替えに手に入るはずだった願いは、絶望的な形で結局ブレイクの望まない結末で閉じてしまった。
「夢を見るんです。レイムさん」
シャロンから手渡された白い花で作られた花冠を墓標に手向ける間、近寄りもせず見守ったブレイクがレイムの背中に語りかける。
振り返らず耳を傾けたレイムはぽつりぽつりと漏らされる言葉を聞き逃さぬように注意を払った。
「主人達を助けたくて、現実を受け入れられなくて、過去を変えたくて、……違法契約者として夜な夜な罪を重ねていた時の夢です」
馬鹿ですよね、と笑う気配がしたが笑ってはいないだろう。
「夢ではね、実際には聞こえなかった声が聞こえていた。……私の名前を呼ぶんです」
一歩。墓標に近寄る足音に肩越しに振り返れば、見下ろしてきた視線は真っ直ぐに刻まれた名前を見詰めている。
「今は呼ばれない名前をね、私の名前を何度も呼ばれて、それでも私は返すことも振り返ることも出来ない」
そっと伸ばされた指先が躊躇で止まる。墓標に触れるには罪に塗れ過ぎた己の手を恥じるようそれ以上先へは伸ばされない。
「あの時の私は彼女を守ってあげる選択肢を取れなかった。現実を受け入れることが出来ず自分を守るために精一杯だった」
「ザクス」
「だから、今になって夢を見るんです。彼女の名前は此処にあっても精神も肉体も此処には無い」
深淵に引き摺られれば何も残らない。
「自我は融けてなくなってしまいます。あの子は私のせいで落とされて意味も分からないまま、異形に変わった筈です」
伸ばされなかった指先が唐突に墓標に触れた。悔いるように手は刻まれた名をなぞっていく。
「許してくれとは言えないし、本当はこうやって触れるのさえ怖かった。でもそれさえ……自分勝手な解釈でしか無いと本能は告げるんです」
人としてあるならば決して導き出せない本能の声。
「死んだらそこでお終い。それ以上も以下も無く、殺すも殺されたも何も関係ない。分かっている」
「……ザクス?」
「人間であっても答えには辿り着いている。勝手に罪を償うために苦しみを負うだけだ。けど、私は」
「なぁ、ザクス」
「……はい?」
「良いんじゃないのか、別にそれは」
墓標に触れたままの白い手の上、レイムは手を重ねて思った通り冷たい温度に苦笑する。
自分も器用ではないと思うがブレイクはそれ以上に生き方が不器用だ。逃げ道を自ら塞ぎ、救いの概念も自ら捨て痛みを更に背負おうとする。
その痛みを贖罪とせず、痛みで錯覚を起こし自分勝手に罪を背負った気でいると結論付ける生き方をしながら、それでも笑うブレイクを放っておけなかったのは決して彼が無作為に人の命を奪うような選択を取る人間ではないと知ったからだ。
罰があるのだとすれば生きて罪を背負い続ける時間こそが正しくそうだろう。
彼のような人間にとっては一番の罰だ。忘れることなく自己を正当化することも無く背負い続ける。
人という存在でなくなった彼は皮肉にも人格も記憶も何一つ失っては居ない。存在の定義だけを変えてそこにある。
「ザークシーズ。私には犯した罪が償われる時があるのかどうか分からない。法によって裁かれることが償いにあたるのかも実際は分からない」
「レイムさん?」
「けど、抱いてきた痛みも自ら背負った罪の意識も、何も自分勝手だと言う理由で否定する事は無いと思う」
重なっていた手が僅かに震える。
「お前、自身を否定して消えてしまうつもりか?」
「……え?」
「お前の力は否定する事で”消滅”を導く力だろう? そのうち自分を消滅させてしまうつもりか? 器用だな」
「そんなこと」
「自身の過ちを罪だと、償いたいと思う気持ちが悪いわけがない。……それで苦しむのなら少しでも力になりたいと思う」
「自分勝手なんですよ。それに意味は無いんです」
「知ってるさ。私にだってそんなこと分かってる」
墓標の前に供えた白い花冠が視界に入り、密やかに慣れた手つきで花冠を作ったであろうシャロンの姿が思い浮かぶ。
自分勝手な行為だというのは理解している。彼女もまた知りながら、それでも祈るように毎年花冠を手向けるのだ。
「でも、私達は人間で。お前は今は違うけれど、でも心が残っているのだから仕方が無い」
贖罪にするつもりは無い。身勝手な理由で出来上がる行為に価値は無いというのなら、それはそれで良い。
しかし意味が無いと言わせるつもりもない。
「仕方ないって、レイムさん」
「なぁ、ザクス。聞きたいことがあったんだ」
「……はい、何ですか?」
「チェインは何故、人の願いに惹かれるんだろう」
「それは」
言い淀むブレイクにレイムは笑った。
人間の身勝手な行為は不毛なほどに実を結ばない事も多いが、そこまで価値が無いわけでもないのだろう。
「答えが出ただろう? それも身勝手なものかもしれないが」
「そうですね」
何も罪に苛まれる意識まで否定し、無意識下で苦しむ事も無い。
背負った全てを不器用に抱えながら生きる年上の癖にどこか危うい存在を、犯した罪を知った上で好きになったのだ。
その姿勢を定義が変わったからと自己否定で更に痛みを背負う行為を見逃せる筈が無い。
立ち上がったレイムに釣られた腕を引けば、予想外だったのか珍しくよろけたブレイクが訝しげに見上げてくる。
「どう思ってるか知らないが、ザークシーズ」
「……は、い?」
「私もシャロン様もお前が思ってるより、お前のことが好きなんだ」
少しくらい甘えてくれて良い。
小さく言い添えた直後、恥ずかしげに視線を逸らし先に踵を返したレイムの背中を呆然と暫く見詰めブレイクは薄く笑む。
どんどんと歩を進め距離が開く背中と背後にある墓標に交互に視線を遣って、確かめるようにもう一度冷たい感触の墓標に触れた。
「本当、私だけ幸せになったら駄目ですよネェ……。ね、お嬢様」
しかし語りかける声には穏やかなものしか含まれていない。全て身勝手に感じる思いならば知っている。チェインは何故に人の想いに惹かれるのか。
偏に善悪関係無く人の身勝手な行為は純粋な願いを含み、チェイン達にはどうやっても手に入れることの出来ない輝きであるからだ。
名残惜しげに一度苔生す表面を撫でて手を離したブレイクが数歩歩いて振り返る。
声は無く唇だけで告げた言葉は誰にも届かず、宛てた相手にも届いたかは分からないが、応えるかのように手向けられた花冠が僅かに揺れる。それだけで十分だ。
目を細めたブレイクが随分と離れてしまったレイムの背中を追って駆け出す頃には言葉は残滓も無く、消えていた。


―――今度は私が花冠を作って、会いに来ます。
 


>>ifチェイン設定。此処が一番シリアスかもしれない(?)
  帽子屋さんがいつだって罪に苛まれてる人だと思うから。
  レイムさんとシャロンたんで全力で支えて欲しいな。
  そこにそのうちオズとギルも加わって欲しいな。
  全部突き抜けて、痛みも何も本当の意味で抱きとめて笑える帽子屋さんならいいな
  最終的にはそう思っているよ、って話。

夜は長い。随分と前から自分にとっては長いのだなぁと思う。逆に昼間は家で寝ているばかりで、休日晴天に恵まれて外出したりすると不思議な気分にさえ陥るのだ。
生まれつき色素の薄い肌は夜に良く映える、とこの街に来て直ぐに言われた言葉だった。
褒め言葉にも思わなかったが特段嫌味とも思えず素直に頷いた。
真実でも虚実でも構わない。実際これから自分が口にする大半は意味もない言葉ばかりなのだろうし、掛けられる言葉もそうであろうと思っていた。
けれど虚飾の中でさえ誠意は存在し、そこに生きる人間には温かさが通う。
寧ろ自分が足を踏み入れたこの街は酷く人間味が強かった。
この街に足繁く通う人間の、この街で生計を立てる人間の、欲が渦巻いているから。
「エノアさん」
夕焼けに染まる空を眺めながら落ちかけた髪を結い上げたところで、本来此処で呼ばれるべきでない名前で呼び止められる。
淀みのない通る声だ。
つと腕に付けていた時計に視線を移せば出勤までの時間があまりないことを告げている。素知らぬ振りで立ち去るべきだと判断して歩み去ろうとした瞬間、
「……エノアさん」
やんわりと腕を掴まれて引き留められた。声のした方を振り返れば幾分も高いところから見下ろす視線とぶつかる。
「名前」
小さく溜息を一つ落として仕方なく足を止める。
遅刻してしまうのは間違いないだろうが、その時は目の前の男なり他の男なりを掴まえて同伴出勤すれば咎められることはないだろう。
「……名前?」
不思議そうに首を傾げる男の顔に張り手の一つでもしてやりたいと思いながら、何とか踏み止まって言葉を繋げた。
「それ、呼ばないで下さい。私のことはザクスと呼んで下さいネ」
男が呼んだ名前は自分の名、そして告げた名前もまた自分の名。
指摘に気付いたように男が笑う。そうして言い直される名前に、不思議と名残惜しさを感じた。


***


「あんた、やばいんじゃないの?」
向かい側でジュースを飲みながら何てことも無く話す女性にエノアは首を傾げる。
道路に面したカフェテラスで一緒にお茶をする相手は、明るい薔薇色の髪を持つ華やかな雰囲気の女性だ。
「何がです?」
「最近、変なのが付き纏ってるって聞いたわ」
「……変なの」
考えながらテーブルに置かれたケーキを突くエノアに痺れを切らしたように相手は話す。
「このところ良くあんたに指名入れてくる、あの…! えぇっと、ほら、警察の、」
「ああ、レイムさん?」
「そう、それ!」
身分のきちんと証明された仕事だというのに変呼ばわりとは可哀想だなと内心思いながら、エノアは頷く。
確かに変と言えば変だと思うのだ。
「何か悪いことでもしたの?」
「まさか」
どうやら本気で心配しているようで、身を乗り出してくる女性に苦笑する。
「してたとしてもしっぽを出すようなヘマはしません」
夜の街に潜む非合法な実情を知らぬ二人ではない。一度手を出してしまえば泥沼に填ったように抜け出せず、身の破滅を招いた人間を何人も見てきている。
小耳に挟んだり一端を垣間見ることはあっても自ら進んで手を伸ばすことはあり得なかった。
「ふぅん。それじゃ、なんだって気に入られたものね」
「珍しいんじゃないんですか?」
頬杖をついた相手がじろりとエノアを見遣った。何をとは問わず視線だけで何が悪いと言わんばかりである。
喧嘩を売った訳ではないのだが彼女にとっては地雷だったか。
「なに? 水商売の女が?」
途端鼻白んだ彼女にやんわりと笑って、何でもない事のようにさらりとエノアは言う。
「そうじゃなくて、私が…じゃないですかね」
押し黙る女性にまた笑いかけてエノアは切り分けたケーキをもう一口頬張った。
沈黙に耐えきれず
「確かにあんたは変わってるけどね」
話し出す女性は眉間に皺を寄せている。
自分を卑下するような言い方は止せと言外に告げる様子に、本当にお人好しなんだからとぼんやりと思うのだ。
この街で生計を立てる人間として自分が少し毛色が違うことをエノアは十分承知している。
良く言えば欲が少ない。
人並みに欲はあるつもりだが、周りから言わせれば希薄らしいのだ。
極端に色素の薄い容姿も相まって珍しがられることはよくあることだった。
「珍獣ってわけじゃないでしょ」
「おや? 私のことよく”悪女”だなんだと言う癖に優しいんですね」
「それとこれとは話が別よ!」
テーブルに勢いに任せて手をついたせいで盛大に音が上がり、何事かと店員が様子を伺ってくる。
それにひらりと手を振って愛想笑いで返し女性は座り直して大きく溜息を吐いた。
夜になれば綺麗に結い上げる髪を手を付けず下ろしたままにして、毛先を見るように両手で長い髪を掴んだ彼女は視線を戻さずに続ける。
「とにかく気をつけなさいよ」
ぽつり。
「ええ、有り難うございます」
小さな呟きも聞き逃さず笑ったエノアに女性はばつが悪そうに微かに笑った。
飲み物をほぼ飲み終え、新しく注文するか店を出るか口を開こうとしたタイミングを計ったように携帯の着信メロディーが鳴り出す。
顔の目の前に手を移動させ無言で詫びながら、女性が鞄の中から携帯を引っ掴み電話に出た。
「もしもし?」
音も少なく席を立ち会話を聞かれないよう移動していく姿を見ながら、残されたエノアは手慰みにテーブルの上のメニュー表を手で弄う。
会話は殆ど聞こえないが、彼女の様子からするに店ではなく客からの電話のようだ。
少し我が儘に思われる態度を取ることもあるが女性は気が利いて器量も良い。金持ちでは無いにしろ気性面で質の良い客がつきやすいのは頷けた。
談笑を交えながら電話を切った彼女が駆け足で戻ってきてテーブルの上にあった伝票を掴む。
「ゴメン、私ちょっと用事が出来たから」
「あ、はい」
「今回は私が持つわ。もうちょっとゆっくりして出なさいよ。折角の休みでしょ」
伝票に伸ばし掛けた手から逃れるように伝票の掲げて女性が笑った。会計は持ってくれるらしく、伝票を手にそのままレジへと向かってしまった女性を見守って一息吐き、背もたれにもたれ掛かる。
これからの予定が無くなってしまった。
今日は休日だから仕事はしたくないし、家にでもこのまま帰るべきだろうか。
空にしたカップの縁をなぞりながら考え込んでいるとテラスの外から声が掛けられる。
「エノアさん」
そんな風に名前を呼ぶ人間は少なく、顔を上げたところで手を振る人間と目が合う。
先ほどまで同業の女性との話題に上がっていた男だ。
「名前、」
ふっと息を抜く軽さで笑う。
「幾ら言っても駄目みたいですネェ」


***


からからと自転車の車輪が回る音が耳を擽る。
すっかり紅く染められた夕空を見上げて首を傾げた。
「そういえば、何かご用事があったんじゃないんですか?」
隣を歩く背の高い男が小さく相槌の声を上げた。自転車を引きながら男が笑う。
「済んだ後だったから」
「そうですか」
「エノアさんこそ」
「私は休みですし、丁度予定が空いた所でしたから」
無理に仕事でもないのに誰かに付き合うことは無いし、断れないような性格はしていませんよと付け足してエノアは黙る。
お茶の後に買い物に付き合うはずが相手に振られてしまい、予定が空いた所で隣の男に声を掛けられこの時間までふらふらと街を歩いた。
特段買い物の用事も無く時間を潰すための行為に付き合った男は本当は用事が有ったのではないのだろうか。
自転車の篭には何も入っていない。
「付き合せちゃいましたね」
「え?」
「ねぇ、レイムさん。本当は用事済んでないんでしょう?」
その言葉にゆったりと首を振った男が笑い、ハンドルから離した片方の手が伸ばされる。
さらりと白銀の髪先にだけ触れた手を見詰めながら言葉を待っていると、酷く落ちた調子の低い声が聞こえた気がした。
「……え?」
聞き取れなかった言葉を聞き返そうとしたところで、いつの間にか移動していた指先がエノアの唇に触れる。なぞった指先に薄く口紅が着くのを見詰めて数秒経って意識が引き戻される。
これではセクハラだ。文句を言ってやろうと思い見上げ、しかし言葉は飲み込んでしまった。
「行こう」
何事も無かったように自転車を引く男の言葉にエノアは頷く。
夕闇が混ざる空模様を男が仰いで本当にどうだって良いことを呟いた。
「ねぇ、レイムさん」
隣ではなく数歩後ろを歩いてエノアが声をかける。肩越しに振り返る彼の表情はいつもと変わらない。
「どうか?」
「いいえ、すみません。何でもないです」
だからこれ以上何も言えずに隣に追いついてアパートまで大人しく送られることにした。
他愛の無い会話は殆ど頭に入りそうに無くて、だから途中で会話が尽きて沈黙が続いたことだけが有り難かった。
「それじゃ」
「はい。レイムさんも気をつけて」
アパートの前で別れた背中に手を振り、角を曲がって消えたのを見届けてから階段を上がる。
扉を開けて靴を脱いだ所でエノアは額に手を宛てた。
「……ああ、もう」
ぐしゃりと前髪を崩して肩から落ちた鞄を引き摺るようにベッドに倒れこむと小さくスプリングが悲鳴を上げる。
化粧がついてしまうではないかと考えた所で、さっきなぞられた唇の、その口紅の付いた指先を思い出した。
何故。
「信じられない」
普通、あそこで泣きそうな顔をするだろうか。
そんなものは一瞬ですぐに分からなくなってしまったけれど、近距離で見間違う筈もない。
華やかな夜の街で口説かれることなんて幾らでもある。同じような言葉を言われたのに重さが違いすぎた。
(――ただ会いたかったから)
低く落とされた言葉はたぶん、こうだった。
飾りも何も無く幾度も同じ言葉を、似た言葉を、聴いてきた筈なのに受け流せない。
ゆっくりと一回寝返りを打って天井を見上げた。何も映さない慣れた光景に一つ息を付いて目を閉じる。
何事も無かったと忘れてしまうのが一番だと分かっているのに、それでいいのかと自問されているようで気持ちが悪いと思う。
「そういえば」
ふと思い出したように呟く。
初めて会ったのが夜の街ではないから、彼が自分を認識したのは本名からだと分かっているが呼ぶのを許容したのは経緯を考えても酷く珍しかった。
何度かその名で呼ばないで欲しいと言ってはみたけれど、どこかでは惜しいと思っていた自分がどうかしてるのだ。
上半身を起こしてもう一度大きく息を吐き出して首を振る。
考えるのはやめてしまおう。どうしたってこれ以上も以下も無いと結論付けて小さく笑みを零した。

夜の街に生きる女を蝶と喩えるのなら、自分は触れてきたあの指先を止まる先としたかったのかもしれない。



>>夜の街設定の二人。
   この設定の眼鏡がどうしても黒いんだがどうしたらいいんだろうな^q^
   女設定の帽子屋さんはエノアでほぼ固定だよ!_|\○_ ヒャッ ε= \_○ノ ホーウ!!!
   ああ、あたまわるい(笑)

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そんなところです。

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